過食症と過食嘔吐 心の声を聞いて

食べたいけど食べたくない。普通に食べられない。
過食症になってからのみなさんの体験談をまとめました。

治したいと思っているのに

摂食障害は、治したいと思っただけでは治りません。

適切な行動をひとつ、ひとつ、とっていくことが回復への近道です。

(以下相談者の方の体験談です)
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女性 学生 32歳 O型 岡山県

私は、17歳で一人暮らしを始めたことがきっかけで過食嘔吐が始まりました。
あれから15年。
恋愛や結婚・出産などの度に、数年単位の擬似停止もありましたが、仕事のストレスや人間関係のトラブルなどがきっかけで、再発を繰り返し現在に至っています。

最初は、コンビニで普段は我慢しているお菓子を買って帰り、一人で誰の目も気にせず食べたいだけ食べれることに幸せを感じていました。でも、そのうち体重が気になり始め、食べたいけれど太るのはイヤで吐くことを思いつきました。

始めはうまく吐けずしんどかったけれど、そのうちうまく吐けるようになり爽快感を感じるようになっていきました。
吐くことで、自分がリセットされるような喜びさえ感じていました。

そして、食べたいものを何ひとつ我慢せず食べたいだけ食べること、
吐いて自分がリセットされた上、太らない過食嘔吐が止められなくなっていきました。

この15年、過食嘔吐が再発するたびに「これはストレスのせいだ」と自分を正当化してきました。お金も時間も無駄にしていることを頭では理解していながら「今日で最後。リセットしたら明日からは大丈夫」と自分に言い訳をしてきました。

でも、一方では過食嘔吐している自分を否定し、責め続けてきました。
特に趣味もなく、空いた時間を全て過食嘔吐に費やす生活、時間もお金も捨てていることへの後ろめたさ、
そして自分の身体に生じる不調(むくみ、唾液腺の腫れ、倦怠感、肌荒れなど)を感じては身体を痛めつけていることへの情けなさで自分はダメな人間だと落ち込みました。

でも、止められない過食の衝動。一度「食べたい」と頭によぎると、もうそのことしか考えられなくなる。
いてもたってもいられなくてコンビニやスーパーに駆け込む。帰宅すると一気に食べ、でもまだ食べたくて、台所にあるカップラーメンや食パン、残り物などを食べ尽くす。

そして、水をがぶ飲みしトイレで全部吐く。落ち着くと同時に激しい後悔が襲ってくる。明日こそは止める。そう思うのに、また襲ってくる過食の衝動。自分が何かにとりつかれている恐怖に襲われ、ようやくここに辿り着きました。

どれだけの時間とお金を無駄に捨ててきたでしょうか。
人生で一番楽しかったはずの10代後半から20代を、私は自ら捨ててきたという事実に愕然としています。

そして、奇跡的に娘を授かり無事出産しましたが、世代間連鎖のことも知らず過食嘔吐を続けてきました。
娘に過食嘔吐の姿を見せたことはありませんが、本当は仕事が終わってすぐ保育園のお迎えに行けるはずの時間を過食嘔吐に使い、ギリギリにお迎え。

そして、帰宅後はお迎えが遅かったために疲れてぐずる娘にイライラし怒ることもしばしば。
ゆっくり遊んであげる時間もなく、寝る時間になるからと早く早くとせかす夕食と入浴。

間接的に、過食嘔吐が原因で娘に寂しい思いをさせ、しわ寄せが来ていたことに気付きました。
今は、娘に連鎖させないためにも、自分のためにも絶対完治したいと思っています。

今までの私は、自分の意思が強くなれば治るはずと思っていました。
でも、治したいと思っているのに、治すための努力はしてこなかったように思います。

「治したくない」「いつまでもお菓子やパンを食べたいだけ食べたい」というインナーチャイルドがいたからだと思います。
でも、今は過食嘔吐という手段でしか自分を解放できないほど抑制した人生を送ってきた自分を知り、その自分を認めてあげようと思うようになれました。

今まで、いい子でなければ親にも夫にも愛されなかったために、人前でダメな自分を出すことが出来ずに生きてきた自分を「良く頑張ったね」と褒めてあげようと思います。
それは、過食嘔吐している私のことも「大好きだよ」と言ってくれる、ありのままの自分を受け止めてくれる場所を見つけたからだと思います。

愛されたいと願いながら、どんなに頑張っても誰からも愛されていると実感できなかった日々。
それは、私自身が自分を愛せていなかったからだと気付きました。

それどころか、自分で自分を傷つけ続けてきたのです。
これからは、「もういいよ」「よく頑張ったね」「大好きだよ」「そのままでいいよ」って自分に言ってあげようと思います。

相談を始めて擬似停止が続いている嬉しさの反面、いつまた再発するかという不安もあります。
でも今は、初めて「もう一人じゃない」という安心感があります。失ったものはたくさんあるけれど、命を失くす前にこう思えたことに感謝します。